その怒りは自分事なのか?

2019年11月24日日曜日

雑記

自分は芸能人やスポーツの話題に全く通じておらず、周囲からそれらに関連する話題を振られてもまともな答えが出来ないし、また相手が一方的に考察しているならそれに相槌や生返事を返すのが精々である。覚せい剤やら脅迫文がどうといった内容のスキャンダルを聴いても、特に大きな関心を示すわけでもない。

それでもTwitter等ではそういう内容にツイートやRTを通じてしっかりと怒りを表明する人々が見られて、どうして彼らはここまで注意を払う事が出来るのだろうかと思う。メディアから与えられた、驚きや怒りで以って迎えてもらう事を想定したニュースに対し、几帳面に反応している構図がそこに表れているのである。

自分に全く無関係な出来事に対して一々プリミティブな感情を励起・消費させられている気分が嫌になってきた為、以降自分はその様なニュースに対して反応を返す事をやめる様に心掛けてきた。心掛けというのは、今でも気を付けないとその手のニュースに何らかの形で反応してしまう可能性があるからだ。考えている時間が勿体ないし、またこれがTwitter等に入り浸りになってしまう契機となるかもしれない。

外界でのニュースに心を掻き回されているままでは、感情の消耗戦になってしまう。もしそれで心が疲れている兆候があるなら、例えばニュースに機敏に反応する様なアカウントやツイートをTLから外す試みをしてみるのが良いのではないかと思う。喜怒哀楽の発露及びその時間に対するコスト意識を持ち、それを自分事の為に取っておくようにするのである。その芸能人のスキャンダルは自分の生活水準の悪化に繋がるか?その煽り気味のタイトルの記事が自分を向上させた事は過去どれだけあったか?兎に角関心の奪取を第一義とする意図が明確に見えるニュースは無視する事を勧めたい。

それでも尚、そういった内容が気になってしまうならば、いっそ好きな事や得意な事を幾つも見つける試みを始めてはどうか?重要なのは『関心の暇』を作らない事である。休む為等の理由で何もしない・できない時間があったとしても、その時間における思考を自分の為に費やすようにする。そうして外界に対する不要な感度を少しずつ減らしていく。

勿論住んでいる場所の災害情報等には注意しておかなければならないが、大体こういう時もデマが発生する。単にセンセーショナルな反応を意図した内容もあれば、純粋に安全性・正確性に欠ける内容の物もある。後者に至っては、平時であっても善意と無思慮のコラボレーションで以って拡散されやすい。これはこれで問題なのだが、本件の詳述はまたの機会にしたい。

ただでさえ可処分時間に余裕がないのだから、せめて自分にとって意味のある割合をそこに増やす為の試みを能動的に行っていく事は、今後もっと重要になっていくだろう。